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Pacific Coast Highway

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たぐいまれな才能をもったティーネージャー達からなる天才集団、
それがボーンズ・ブリゲードだった。

Bones Brigade・・・これはデスメタルのバンド名でもなければ怪しい協会の名称でもない。
社会のはぐれ者でありながら、たぐいまれな才能をもったティーネージャー達からなる天才集団、それがボーンズ・ブリゲードだった。
名声や人気に動機づけられるわけでもなく、世間からは見向きもされない孤独なアートに人生をかけた。天性と技術を兼ね備えたボーンズ・ブリゲードの登場はスケートボード業界に激震を走らせ、1980年代を通して影響力を与え続けて史上最も人気を集めたスケートボード・チームとして成功を収めた。
70年代の元スケートボード・チャンピオンが率いたボーンズ・ブリゲードはスケートボードにおける帝国を築き、大会を総なめにし、巨万の富を生みだした。また今日のスケートビデオの原型を編み出し、広告スタイルを一新し、スケートボードにおける新しい時代を切り開いた。これまでに存在しなかったストリート・スタイルと呼ばれるようになる新しい流れの土台を築いたのだ。今日のスケートボード界で彼らに肩を並べる存在はない。

1978年、新しいスケートボード製品を開発していた技術者と当時最も人気を博したスケートボーダーの一人が手を組んだ。
ジョージ・パウエルとステイシー・ペラルタはパウエル・ペラルタを創業し、瞬く間にスケートボードの製造とマーケティング手法を改革した。
自宅のガレージとキッチン・オーブンを使い製品開発をはじめていたジョージは、さらに独特の白さから命名されたダブル・ラジアルの”Bones”ウィールや最先端のスケートボードの板など革新的な道具を発明していった。ステイシーは長年のクリエイティブ・パートナーであったクレイグ・ステシックとスケートボーダー達をリクルートし、マーケティングを担当した。ありふれた広告手法を避け、若いチーム・メンバーを起用し、既存のスケートボード・カルチャーに対する皮肉と反骨的なブラック・ユーモアを反映した独自のイメージを打ち出した。

体育会的なノリを一切排除するために、ステイシーはこの集団に対して“チーム”という単語を使いたくないと語っていた。クレイグは肩をすくめ、“Bones Brigade”とひとこと言った。
パウエル・ペラルタはミリタリー調のモチーフと先進的なスケートボード・グラフィックを掛け合わせ、スケートボードの板よりもバイク・ギャングのタトゥーに似合いそうなデザインを用いた。ステイシーは偉大なスケートボーダーであったが、それ以上に彼のスカウト能力は群を抜いていた。1984年にはトニー・ホーク、ロドニー・ミューレン、スティーブ・キャバレロ、ランス・マウンテン、トミー・ゲレロ、そしてマイク・マクギルによるスケートボード史上最強のチームが誕生していた。数々の大会でトロフィーを勝ち取っていたトニー・ホークとロドニー・ミューレンだが(弱冠13歳の少年だった二人は当時周りのスケートボーダー達には理解されていなかった)、それ以上に新たなスケートボードの乗り方を創造して現代のテクニカルなスケートボード・スタイルを開拓するという偉業を果たした。
えこひいきをするスケートボード雑誌の慣習に不満を持っていたステイシーは家庭用ビデオプレーヤーに狙いを定め、“Bones Brigade Video Show”を1983年に監督した。これまでになかった低予算自主制作スケートボード・ビデオを発売し、異例の3万本を売り上げた(ベータマックス版も含)。

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ティーネージャーの間でBones Brigadeのメンバー達は一躍世界的スターとなった。

当時スケートボード界は困難な時期にあった。ウレタン製ウィール(タイヤ)の発明により全米で巻き起こった1970年代のスケートボードブームも1981年にはウソのように衰退していた。残ったスケートボーダー達の社会的地位はマイナーな文化部員以下だった。パウエル・ペラルタは年間を通じ、月平均500枚のスケートボードしか販売できず、またトニー・ホークが受け取ったロイヤリティーがわずか85セントということもあった。ブランドの知名度を上げ、スケートボード全体の人気を底上げするために、ステイシーは毎年新しいBones Brigade Videoをプロデュースし、多彩なチームメンバーの個性と新しいスケートボードのトリック(技)を紹介し続けた。これらのビデオはマンホールからはい出てくるスケートボーダー達の姿や、廃墟になったプールや裏庭、無人の坂道を猛スピードで滑走するシーン等、一般大衆からは遠慮された世界をとらえていた。

1980年代半ばには全世界でBones Brigade Videoが売られ、次世代のティーネージャーの間でBones Brigadeのメンバー達は一躍世界的スターとなった。スケートボード・パークが消滅する中、DIY(Do It Yourself)精神を強いられた熱烈なスケートボーダー達が木製ランプ製作の革命を起こし、同時にインディーズ・ブランドは独自の雑誌を発行する等、初めてスケートボーダー達自身が業界全体をコントロールするようになった。パウエル・ペラルタは1987年にその頂点を迎え、年商2,700万ドルを達成し、チームは大会常勝、毎月2万ドルのロイヤリティー収入を得、世界中をツアーし、時には暴動を起こしながらも、史上最も成功したスケートボード・ビデオ、“The Search for Animal Chin”に出演することになった。

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しかしながら、この業界の性質上80年代の終わりにはスケートボードは再び人気を失っていた。業界はバラバラに分解し、売上げの桁が目減りし、ほとんどのトッププロも副業を探す状況に陥った。パウエル・ペラルタはオーナー同士の経営方針の相違により解散することになり、ステイシーはハリウッドで映画を製作する道を選んだ。ボーンズ・ブリゲードの中核メンバーも分散し、かつての師が1978年にしたように、各々が自分のスケートボード・ブランドを立ち上げた。ジョージは再びメンバーを集め、PowellとBonesというブランド名の元でスケートボード製品を作り続けた。

それから20年後、当時のブリゲード・メンバーは今も変わらずスケートボードに携わっている。各人はそれぞれの道で成功を収めたが、時代を共に築いた戦友としての結束を保っている。トニー・ホーク、ロドニー・ミューレン、ランス・マウンテン、スティーブ・キャバレロは現役のスターとして活躍し続け、トミー・ゲレロはスケートボード・ブランドを経営し、マイク・マクギルは全米で最も成功している独立系スケート・ショップを所有し運営している。2001年にはステイシーが手がけたドキュメンタリー映画”Dogtown and Z-boys”が賞を獲得し、彼もスケートボード界に復帰した。

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